2005年09月19日

翼―cry for the moon

村山由佳、集英社文庫、2002年6月刊。
9/17〜9/19に読みました。

もう何年も前にハードカバー(97年9月刊)で読んでたんですが、
今年の6月に文庫を購入して、ようやく再読しました。
ハードカバーの時も分厚いなという印象でしたが、
文庫にしても同じく、ですね。558ページの長編です。

人物関係については覚えてたんで、読んでて驚くことはありませんでしたね。
初めて読んだ時は、「え!?」と思わされることがありましたが。

舞台はアメリカ。
ニューヨークとアリゾナとニューメキシコ――ナヴァホの人々の住む地域。

主人公は篠崎真冬(マフィ)。ニューヨーク大学の院生。
彼女は癒えることのない、ある心の傷を持っているんですが……。



この本が出たのは97年。私が15の時ですね。
いっそ国内のツーリストにも、どこそこの何が危ないって告知するべきよ。
ハロウィンの日にはルイジアナに行くな、たとえ行っても知らない家のドアを
ノックするな、って具合にね。(p73)

久しぶりに読んで、「あぁ、服部君のことだなぁ」と思いました。

当時はまだ私は中学生でしたが、衝撃的な事件でしたね。
まさか、自分の進学した高校の先輩だとは思いもしませんでしたが。
入学してからその事実を知った時は驚きました。

しかも、私は数ヶ月だけですが、服部君が使ってた教室で過ごしてました(2年の時)。
その建物も、今は耐震のための改修工事が終わり、原形をとどめていませんが。



「あなた、『愛してる』ってどういうことだと思う?」(p81)
「(略)ねえ、『愛してる』っていうのは、『大好き
 っていうのとは違うものなの?」(略)
「私にはね、ドング。あなたの言う、そのあたりまえの『』っていうのが
 どういうものなのかさえ、イメージできないのよ。全然」(p82)


とても好き。それだけではなぜいけないのだろう。
どうしてラリーは「愛してるよ」と口にした後に、さぐるような、
期待に満ちた目で見つめてくるのだろう。

理由は、もちろんわかっていた。
彼は「私もよ」という答えを待っているのだ。(略)

そして相手が喜ぶというなら、さっさと口に出してしまえば
すべて丸くおさまるものを、上手に割り切ってしまえない
自分の不器用さがわずらわしくなるのだ。

しかし、もし今のような迷いを抱えたまま「私もよ」と答えたならば、
それは嘘をつくのと同じことになってしまう。
実際は愛してもいないのに愛してるなどと言うのは論外だが、
愛が何なのかわからないくせに愛していると言うのも、
同じくらい嘘なのではないだろうか?

たとえそれが世間でいわれる愛とそっくりなものであったとしても、
当人が確信を持って口にしない限り、言葉はむなしい偽物でしかない。

そんなにこだわる必要はないのかもしれないと、真冬もうすうす感じてはいた。
ほとんどの人々は、愛というものの定義など正確に把握していなくても、
相手を好きにさえなれば、平気で「愛している」「私もよ」と
言い合えるものらしい。

よほどの事情がない限り、そんなふうに言われて傷つくことはいないだろう。
少なくとも、言ってもらえなくて傷つく人の数よりはよほど少ないはずだ。

愛している。――あたたかい言葉ではないか。(p83-84)
一番、昔読んで印象に残った一節です。
「どうしてラリーは〜」の辺り。

愛してる」って何なんでしょうね?
正直に言って、今の私は真冬と同じ状態です
大好き」なのはわかるんですが、それがイコール「愛してる」なのか、
っていうと「よくわかりません」、というのが実情です。

身近なところで何らかの「愛」だと感じられるものを
見たことがないからでしょうか?例えば家族愛のような。
ドラマや小説で「愛してる」というのは見かけますが、
でも実感を伴ったことがありません。

それでもやっぱり、わからなくても言葉を返された方が嬉しいものなんでしょうか?
「『お前に近づく者は、みんな不幸になる』」(略)
「母が、いつも私にそう言ってたのよ。
 いつも、いつも、口癖みたいに」(p129)
真冬が「愛している」と言えない理由、ですね。
私はさすがにそんなことを誰かに言われた経験はありません。
それでも、自分が大事だと思う人とは離れてばかりきたので、
「愛してる」というのは怖いものなのかもしれません。
また、大事な誰かを喪ったらどうしよう、という恐怖。

声をたてて笑うのは、結婚式の日以来だった。
しかし真冬は、ラリーを失ってからわずか一か月足らずで
自分が笑えるようになってしまったことにショックを覚えた。
そんな日がもう一度来るものでしょうか、と目の前にいる
リチャードに向かって訊いたのは、つい半月ほど前のことではなかったか。(p308)

ラリーが死んだ直後の記憶はこうして、鼻先を残り香をかすめるように
少しずつ戻っては、ジグソーパズルの欠けた部分を埋めていく。
しかしその瞬間だけは、いくらか薄れていたはずの悲しみや痛みまでが
元のままの鋭さでよみがえってきて、何の準備もできていない
真冬を通り魔のように後ろからグサリと刺すのだった。

いっそのこと、ずっと思い出さないままで
いられたらいいのに、と彼女は思う。
決してラリーを忘れたくないと思う反面、一日も早く、
遠い思い出になる日が来ないかとも思ってしまう。(p358)

ウドゥン・レッグの言うとおりだ。
私はまだしばらく生き続けていかなくてはならない。
生きるというのは、何かを後ろに置き去りにしていくことだ。
ひっきりなしに、大事なものたちと別れていくことだ。
だからこそ、こんなに胸が痛いのだ。(p450)

生別にしても死別にしても、大事なものを喪う痛み、というのは耐え難いものです。
相手のことを忘れたくて、忘れたくなくて。
自分がどうすればいいのか、どうしたいのかがわからなくなります。
自分が願うのは、相手と共にあることなのに、それがもう叶わない。

けれど、別れは生き続ける限り、避けられないものです。
どうしたらその痛みを克服できるのか……それがわかるなら苦労はしないですね。
少なくとも、ウドゥン・レッグのように達観できる日は、
私にはまだまだ訪れないのでしょう。


解説で池上冬樹氏がこんなことを言ってます。

作者が重視しているのは、恋愛の進展や結果ではなく、
いかに自分自身を認識するかという点にある。
小説では主人公が、事件や恋する相手との関係を通して自分が何者であり、
何者になろうとしているかを発見するのが主眼なのである。


確かに、恋愛の進展や結果は大事だと私も思います。
でもやっぱり、恋愛を通して自分がどう生きるのか、生きたいのか、
っていうのは大事なんですよね。これはよくわかるなぁと思いました。

最後に、池上氏が引いた文を載せて終わります。

「すべては、あんたの選択次第なのだよ。
 ……人を愛せる人間になるか。
 憎しみに支配された人間になるか。
 幸福になるための努力をするか。
 不幸への坂を滑り落ちるにまかせるか。
 育った環境も、置かれている境遇も関係ない。
 あんたが、自分で、選ぶことだ」(p494)
タグ:村山由佳
posted by ルゥ at 00:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 恋愛モノ | 記事編集
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